荷を下ろしたその先に

ずっと背負い続けてきた荷を下ろした時に見える世界

私か、私以外か

こんにちは ななこです。

 

 

なんだかローランドさんの名言のようなタイトルになってしまいました。

 

 

私か、私以外か

 

 

これは何かというと自愛する時の矢印の向き、です。

 

 

またまたいただいた通りすがりさんのコメント

 

>>

・朝のもやもやを受け入れる
・嫌なこと言う上司を受け流す
というよりも、
・朝のもやもやを感じている自分を受け入れる
・上司が嫌なこと言ってると感じている自分を受け入れる

に変換したほうがよいですよ。
あくまで主体は「自分」、その自分に意識を向けること、気が付くこと、これが自愛であり、自分に意識を向けているとき、今に生きているのです。その時間が増えてくると、主体が自分であるという意識が根付いてきます。

 

を読ませていただいて、

 

そうか、と思いました。

 

 

・朝のもやもやを受け入れる
・嫌なこと言う上司を受け流す

 

 

は、受け入れたりしているので一見自愛をしているように見えますが、矢印が外側なんですよね。

 

 

自分を受け入れているのではなく

出来事を受け入れている。

 

 

それに比べて

 

>>

・朝のもやもやを感じている自分を受け入れる
・上司が嫌なこと言ってると感じている自分を受け入れる

 

は、矢印が自分に向いています。

 

 

これ、気が付かなかったのですが自愛をする上での大きなポイントじゃないかと。

 

 

自分を受け入れているつもりが実は受け入れていなかった、という事が結構あるのではないかと。

 

 

もしかして自愛が上手くいかないという時は矢印が外側に向いているのかも知れない、そう思いました。

 

 

そしてそれが一番大切な見落としがちな盲点になっているのではないかと。

 

 

とても大切で、でもなかなか自分1人では気づくことが出来ないポイントを気づかせてくださる通りすがりさん、いつもありがとうございます。

 

 

コメント欄だけでは勿体無いので、ブログを読んでくださる皆さんにもぜひ共有して欲しいです。

 

 

どんな時も主体は自分

 

 

自愛している時、その矢印はどちらを向いているのか?

 

 

私か、私以外か

 

 

大切なのはこれだけなのかもしれません。

 

 

なので、これからはこの事を意識して自愛をしてみようと思います。

 

 

自愛をやってるけどイマイチよくわからない、という方がいらしたらぜひ、矢印の向きを意識してみてくださいね。

 

 

 

今日も読んでいただきありがとうございました。