荷を下ろしたその先に

ずっと背負い続けてきた荷を下ろした時に見える世界

向きと知覚完全の話

こんにちは ななこです。

 

「定義」のお話をお聞きしてからなんだか軽いです。 

別に何か大きな気づきがあったとかではないんですけどね。

 

「定義」が現実に反映する

 

結局は自分なんだな。

誰かのせいじゃなく、現実は自分の定義が現れているだけなんだ。

 

108さんや達人さん達が何度も言ってきたことだけど、今までわからなかった。

 

表現が少し違うだけで入り方が違う。

もちろん自分の認識が少しずつ変化してきたのもあるとは思うけど。

 

 

108さんはよく「向き」の話をする。

充足を向けば良いだけ

太陽の光の方を向くだけ

と。

 

例えとしては秀逸だけど、実際にはどうやれば???

願望実現という観点で向きを変えるってどうすればいいのよ!?

 

とずっと謎だった。

立ち位置を変えるって何!?

もっとわかりやすく言ってよ!と(笑)

 

でもやっと、それが

「不足(定義)を疑う」

「適切性と一致する」

をはじめとした在り方なのだとわかってきた。

 

不足と見える現実を絶対的なものとしてガン見するのではなく、それはもしかしたら違うかもよ?

という観点を持つこと。

 

現実は定義の現れなのだから、その定義が違うかもよ?という視点になるのが向きを変えること。

 

これは「知覚不全」の立場を取るとも言えるのかな。

 

私はずっと不足に見える現実を真実として疑えなかった。

不足の中から無理矢理充足らしきものを見つけて、これが充足なのだと自分に言い聞かせて我慢して頑張って。

 

108さんは我慢しろなんて言ってないのに、今ある充足を見ろってことはそれで我慢しろと捉えてしまってた。

 

108さんの例えだと、身体はそのままで首だけ捻じ曲げて向きを変えるような。

「知覚不全」じゃなく「知覚完全」の立場をガンとして譲れなかった。

 

知覚完全について

https://yanpichan.hatenablog.com/entry/2021/08/27/173531

 

 

不足(定義)を疑う

 

ということは自分の知覚が間違ってるかもよ?

そうは思えないかも知れないけどホントは違うかもよ?

と「知覚完全」じゃなく「知覚不全」の立場をとるということだったんだ。

 

ほんの少し見方を変えてみたら?

そしたら違うものが見えてくるよ?

ってことだったんだね。

 

自分の目に映るものを絶対とする「知覚完全」のままだと不足は疑えるわけがない。

 

見えたものを真実と信じて疑わないのだから。

 

…なんて書いてるけど

今はまだなんとなくわかっただけだけ。

所謂腑に落ちた、とかではない。

(すごく憧れてました、腑に落ちるって)

 

でもそれでいいんだ。

 

ちゃんと理解しないといけない、腑に落ちないといけない、認識の変更しないと!というのもエゴのウソなんだから。

 

理解できなくても

わからなくても

上手くいって良い。

 

臨時収入もないし

好きな人からの連絡もないけど

ちょっとでも楽になれたことが嬉しい。

楽になろうとしてなかったのに楽になって

肩の荷が少しおりた…

 

これがゴールなのかも?

私にはそう思えないけど…ね^ ^