こんにちは ななこです。
日々気持ちや感覚の変化を感じるに付け、今まで自分の感覚をまるで信じていなかったなぁと気づいた。
108さんやこまけぇさんはいつも
「自分の感覚(フィーリング)を信じてください」
と言ってけど、そこは完全スルーだった。
自分に都合悪いことってホント見事にスルーするシステムだわ。
願望実現と自分の感覚を信じることがなんで関係するの??
全くわからなかった。
そんなこといいから認識の変更したい!
どうしたら「既にある」が腑に落ちるのか教えて!!
と思ってました笑
なぜ私が自分の感覚を信じられないのか?
辿ってみればそこにはやはり母親の存在があった。
まあ、あれだけ否定され続けたら自分の事を信じられる方が奇跡。
自分以外が全て正解、と思ってた。
子供の頃からずっと。
小学生の頃友達と塗り絵をしていた時、私はピンクや水色など明るい色で塗っていたんだけど、ふと隣の友達を見ると茶色や深緑、グレーなどダークな色を使ってた。
それを見てなんて大人なんだろう、それに比べて自分はなんて子供っぽいんだろう、そう思った。
友達がすごくカッコよく見えて恥ずかしくなってしまった。
今思えば自分はただパステルカラーが好きなだけでどちらが優れているとかじゃないのに。
大人になってからもそう。
友達とこだわりのお蕎麦屋さんに行った時、みんなは美味しいー!!と感動してたけど、私はそんなに美味しく感じなかった。
蕎麦から栽培し、全て無添加の調味料を使ったこだわりの蕎麦。
なのに私にはそれほどの感動がなくて、自分にはその凄さがわからないんだ、それに比べて友達はすごい!と思ってしまった。
これも単なる好みの問題だっただけ。
他にもたくさんこんなエピソードがあって、自分がいかに他より劣っていてみんなが凄いかを感じていた。
かと言って他の人は誰も私を否定するどころかあなたは凄いよ、と言ってくれる人ばかり。
それでも私は全く自信が持てなかった。
小さい頃の思い込みってすごいね。
母親が神のような存在だった子供時代は嫌われたら生きていけないから、母親の言う事を全て信じ、嫌われなよう必死に良い子で生きてきた。
その神が「お前はダメだ」というのだから、他の誰が何と言おうと「私はダメ」なんだ。
だって、神が言うのだから。
私にとっての神は厳しく、冷たく、神の意志に背くと罰が下る。
大人になってもう母親が神じゃなくなっても、神についての概念はそのまんま。
だから神へのリクエストなんて怖くて出来なかった。
いや、してるつもりでも全く信じてなかったと言う方が正しいかな。
そんな神から全否定されるようなダメな自分の感覚をどうやって信じろと??
そもそも自分が本当は何を感じているのかさえわからない。
今から思えば感じるのが辛くて麻痺させていたんだろうけど、当時はそれさえ気づかなかった。
だから、自分の感覚を信じるというのは私にとってはあまりにレベル違いのアドバイス過ぎて何も引っかからないというか、そんなこと関係なくね?でスルーしてきた感じ。
これも全て幻想で錯覚だろうけど、小さな「ななこちゃん」が体験したのは本当だから、そこはまだそのままでいい。
それでもここ数日の意識の変化で自分の感覚の変化をわずかながら感じ、神への不信も少しずつ溶けている気がする。
何か現実が動いたわけでも何でもないけど、今までずっと心の奥底にこびりついた不快感が大分減り、たまにひょっこり顔を出してもそれには巻き込まれず、「あぁ、あるなー出てきたなー、でもこれは私じゃない」と俯瞰していられるだけでかなり楽。
メソッドでもなんでもないけど、ただ出てくるものを否定せず受け入れてそのまま流す。
世界が変わった!とかはないけど、今までの焦りや恐怖も殆どなくなった。
もともとメソッド漬けではなかったけど(根気がなかった)今はどんなメソッドも何もやる気なくなって、ホントにやる事がなくなってしまった。
特別良い気分を維持しようとかもないし、好きなことしてくださいとか言われても何も思いつかないし笑
完全に認識が変わったらそれこそ歓喜?とか喜びが湧き上がってくるのかもしれないけど。
かと言って生きる事に絶望してるわけでもない。
今までは早くこの人生終わらないかな、と思ってた。もういいよ、と。
願っても何も叶わない、こんな退屈でつまんない人生飽きた。
自ら終わらせようとは思ってなかったけど、地震とか事故でいきなり人生終わっても別にいいやと。もし癌になったら治療せずそのまま放置しよ、と本気で思ってたし。
でも今はもう少し先を体験したいな、既にあるならそれを見てみたいと思うようになった。
既にあり、叶っているならそれを体験したい。
せっかくあるなら、無いと錯覚したまま終わるのは勿体ないし笑
でもそのために何していいかはわからないから今こそ適切性の一致をしてみようかな。
先日、こまけぇさんの掲示板でまゆさんが
「丸投げでいちばん楽なのは適切性の一致」だと書いてて、なるほど!と思った。
神様に丸投げとか命綱を切るのは無理だけど、適切性の一致なら出来そう。
やる事は同じ事だけど一気にハードルが下がる。表現の違いってすごいな。
適切性の一致はメソッドではなくて単なる技?と108さんは言ってたけど今までまるで興味なかった。
でも一致しようと意識するだけなら出来るんじゃ?もう頑張って何かするのはやだけど、それくらいならやってあげてもいい。(上から目線)
ということで今更ながら適切性に一致する、をやってみます。
やる事見つかってよかった〜〜笑笑
《追記》
↑と書いたけど、ただ安心していればいいんですよね。
適切性の一致は、厳密にはやる事じゃないし。
うっかりするとすぐ「何かやろう」になっちゃうな。
また気づいたことあれば書きますね。
今日も読んでいただきありがとうございました!